佐賀女子短期大学 今村正治学長インタビュー[後編]
立命館大学の職員から佐賀女子短期大学の学長に就任した今村正治氏。全国的にも異例と言われる「大学職員出身」の学長は、立命館退職後、糸井重里氏の「ほぼ日」や、自身で設立した会社経営を経て、現在、佐賀県で3つ目の4年制大学設置に向けて動いています。しかし、今村学長は、4年制大学設置後も、短大は存置する予定だと述べます。それは、短期大学の重要な存在意義があるからだと。単なる大学の生き残りを超えた、地域創生にかけた熱い思いがそこにはありました。
■60歳にして初の上京 そして「ほぼ日の学校」づくりに参加
今村学長:60歳定年年齢になったことを契機に、立命館を飛び出すことにしました。大学を卒業してから38年。このまま、立命館の空気しか吸ったことない自分でした。2019年1月、3月の定年を前に退職することをFacebookに投稿しました。「人生の古池の水を抜いて、新しい水に入れ替える」と。
実はそのときは、辞めてどうするかは、ノープランでした。
ところが、ありがたいことに、何人かの方から、お声がけいただきました。その中の一人が、株式会社ほぼ日の糸井重里社長だったわけです。ほぼ日の学校づくりに参加することになったのです。60歳にして初の東京生活です。
それと立命館での経験を活かして、学園経営コンサルタントとして、ひとりで会社も立ち上げました。株式会社今村食堂の設立です。会社の名前が「食堂」なのは、昔から料理が好きで、人を呼んでふるまうのが好きだから、苦楽を持ち寄り、最後は笑顔になれる場という意味で、「今村食堂」としました。
Q:どんなきっかけで糸井重里さんとつながったのですか?
今村学長:糸井さんとの出会いは、まったくの偶然です。2010年だったと思います。当時、私は、立命館の総合企画部長で、「OIC騒動」の渦中にいたわけですが、そんなとき、BKCからOICへの経営学部移転の後継事業として、食の文化に関する学部を構想していたのです。「ガストロノミー gastronomy」という、食と文化を研究するちゃんとした学問ジャンルがあるのですが、既存学部にはなかなか相手にしてもらえない。「食が学部になるもんか」と、とにかく受けが悪かったのです。
そんなとき、総合企画部のスタッフがが、「むかし、“おいしい生活”ってキャッチコピーがありましたよね、たしか、あれは糸井重里だ」なんて言い出して、「じゃあ、会いに行こう」となったんです(笑)。たまたま、大手広告代理店のアサツーディ・ケイ(現ADKグループ)に勤めていた時の上司がいま「ほぼ日」にいる、という広報課の職員がいて、その人を通じて、頼んでみることにしました。
そして、なんとアポが取れました。
そこで一同で、ほぼ日におしかけて、糸井さんに対面。濃厚な励ましをたっぷりといただきました。「食マネジメント学部」は、2018年BKCに開設されました。
そのことが縁で、私が東京行くたびに糸井さんに会ったり、APUの卒業生たちを連れて、紹介したりするようになりました。そうこうしているうちに、糸井さんは、APUを訪問。ついには、ほぼ日の全社員50人を連れて、二日間、APUに来てくれることにもなりました。また、糸井さんは、崎谷実穂・柳瀬博一著『混ぜる教育』(日経BP社刊)に解説を寄稿されていました。
こうして、糸井さんとのつながりは、2010年から2019年までつづき、私の退職を契機に、2年余り、ほぼ日の学校に関わることになります。最も思い出深いのは、2014年1月、副学長としてAPUに戻るときのことですが、ほぼ日が大阪で開催した「はたらきたい展」で、糸井さんの対談相手に私が選ばれたんです。大学職員だった私にとっては、対談相手は糸井さん、しかも、有料チケット即完売という場は、さすがに緊張しましたね。
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■あなたが来てもダメなら・・・
Q:佐賀女子短大学長就任に至る経緯を教えてください。
今村学長:私は、2019年から、東京を拠点にしながら、札幌市、京都市、兵庫県の学校に関わりながら、別府市では総合政策アドバイザーを務めていました。ところが、東京での生活も約半年を過ぎると、コロナウイルスの感染拡大、コロナ禍時代に入っていたのです。緊急事態宣言下の「ほぼ日」での仕事も、オンラインに切り替わりました。そうなると、東京でのひとり暮らしは息苦しいものになります。
仕事がオンライン中心になると、「別府にいてもよいのでは? 好きな別府で仕事をするのはどうか」と思うようになってきました。「ひと月1週間別府にいます宣言」をしました。
佐賀女子短期大学・内田信子理事長との出会いをつくったのは、荒井優さんでした。現在は、札幌3区選出の衆議院議員です。荒井さんとは、APU時代に知己を得て、私が立命館を退職したタイミングで、彼が校長を務めていた札幌新陽高等学校の企画アドバイザーをしていました。札幌新陽高校は、荒井さんが就任して、廃校寸前の危機から回復発展を遂げた「奇跡の高校」とも言われていました。(現在は赤司展子氏が校長)。その荒井さんに、経営が低迷していた東明館中高を紹介したのは私です。その縁で、荒井優さんは、2019年5月から2023年5月まで、東明館学園の理事長に就任されていました。
私は、荒井さんに乞われて、2021年5月に東明館学園の理事に就任するのですが、就任翌日に、学校法人旭学園・佐賀女子短期大学に連れていかれることになったのです。「同じ佐賀県の旭学園の理事長から経営の相談を受けている。いっしょに来ませんか?」と。
旭学園・内田信子理事長との出会いです。
理事長に就任されて4年、いかに厳しい経営努力をされてきたか、実感が伝わってきました。地方、女子、短期大学、まさに高等教育の三重苦です。しかも、次の学長を探していると。こりゃ~、なる人は大変だな~と、人ごとのように聞いていました。その二日後のことです。内田理事長が、別府まで車を飛ばしてこられて、学長になって欲しいといわれたのです。
職員出身の学長なんて聞いたことないと言うと、内田理事長は、「そんなことはどうでもいいのです。改革してくれる人になってもらう。それが一番ですと。あなたがやってもダメならそのときは・・・」と。
その覚悟の凄まじさに、これは逃げるわけにはいけない、大学で飯を食ってきた自分に白羽の矢が立った、そのミッションは尋常な困難さではないけれど、引き受けてみようと思ったのです。
■今村学長にとっての仕事とはなにか
Q:神戸女学院大学の名誉教授で思想家の内田樹(たつる)さんが、あるコラムで、「仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだ」、「『天職』のことを英語では『コーリング(calling)』とか『ヴォケーション(vocation)』と言いますが、どちらも原義は『呼ばれること』だ・・・あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ」と書いていたことを思い出しました。この仕事の考え方は、今村学長の考え方と同じなのかもしれません。
今村学長:同じかどうかわからないけれども、何となくわかります。私も、仕事は、「自分からこれがしたい」というのがあってやるのではないんです。流れにまかせてやってきた〜という気がしています。そう、真剣な頼みを引き受けていたら、ここまできた、かな。出口治明さんがいう、典型的筏型人生でしょうね。夢の実現のために直向きにストイックに、ひたすら山頂をめざす登山型人生ではなく、たまたまたどり着いた岸辺で、人と出会い、仕事と出会い、そこで何かをして、また旅を続ける、みたいな。
Q:近年、ご自身にとって心境の変化などはありますか?
今村学長:中学時代の同級生に会ったとき、「今村君はいつもワーワー言ってたよね」とか言われるんです。つまり、いつも何かを熱をもって伝えていたようです。これだ!と思うと、次々とまわりを説得して、巻き込もうとする、長所、ときには悪弊をどうしようもなく抱えてきたのだと思います。
今でも人前でお話しすると、「元気の出るお話しありがとうございました」とか言われますが、そんな時は気を確かにして、普段の会議での発言や会話では、なるべき穏やかに(できてるかな〜)、聞くということに努力しようとしています。「還暦過ぎたら魔法が使えるよ」って言ってた人がいたんですけど、これはある意味、メタ認知のことでしょうか。
確かに、自分を取り巻く状況を広く見ることができるようになってきたように思います。今頃か!ですけど。それからちょっと先のことですよね。「あの子転ぶぞ」みたいなことがなんとなくわかるようになってきた。ですから、熱と冷、その両方の感覚を意識するように心がけようとしています。
Q:今村先生には、人が付いてくるというか、人が呼び寄せているというか、人を引き付ける不思議な魅力がありますね。
今村学長:う〜ん、自分の長所はどこにあるのかわかりませんが、かつての上司には、「上の者に卑屈にならない、下の者に偉ぶらない」と褒められたことはあります。いつも僕にとても厳しい方だったので、なぜそんなことを言われたのかよくわからないのですが、自分がそうだというよりも、その言葉を大切にしていこうとは思ってきました。どんな立場も人にも、オープンでフラットに接するということですよね。
それから、とにかく「面白いことをあきらめない」で来たことでしょうか。ワーワー言って人寄せする人間ですよね。芝居小屋の呼び込みみたいに。それに、人といっしょにしないと、不器用な僕にはできることなど何ひとつありませんから。
■韓国との長年のかかわりと、佐賀での韓国との出会い
Q:韓国への着目するきっかけは何だったのでしょうか?
今村学長:韓国への興味は、実は昔からです。少年時代に、金大中(キム・デジュン)拉致事件に衝撃を受け、以来、高校時代には、韓国民主化闘争に関する本、例えば、岩波新書の『韓国からの通信』を読んだり、歴史に興味があったので、司馬遼太郎、金達寿、上田正昭がやっていた「日本の中の朝鮮文化」シリーズを読んだりして、政治にも歴史にも興味を深めていったのです。
立命館大学では歴史学を志し、韓国近現代史を専攻しました。立命館の職員として働き始めてからも、立命館大学は韓国の大学との初めての連携を模索するときの訪問団として、私も初の訪韓を果たしました。
また、市民運動として取り組んでいた「平安建都1200年映画をつくる」会の事務局長として、徴用した朝鮮人たちを終戦後すぐに無理やり帰還させようとした船が謎の爆沈を遂げる、戦後2番目の海難事件・浮島丸事件を題材にした映画『エイジアンブルー』制作に携わりました。
そして、APU開学準備で、韓国の募集責任者となり、頻繁に韓国を往復しました。おそらく今日までに韓国は300回以上は訪問しているでしょうね。
Q:新大学の学部に、日本初の「現代韓国学部」(仮称)構想、韓国文化に目を付けたのは慧眼だと思います。
今村学長:学長として、佐賀女子短期大学に赴任することになって、そこに「韓国語・文化コース」があると知ったときは、驚きました。また韓国か・・・みたいな。
このコースの売りは、高いレベルの韓国語学習で、どんどん韓国に留学できる。短期も交換留学も、そして卒業後、韓国の4年生大学への編入学もできるということです。実績を積み重ねているので、全国から学生が集まります。この韓国留学への道は、コースだけではなく、保育など、すべてのコースにも機会があります。
この韓国語・文化コースがあったからこそ、「現代韓国学部」(仮称)が構想できたのです。
■大学設置構想とこれからの「佐女短」
Q:四年制大学設置構想について教えてください。
今村学長:まず、なぜ4年制大学なのか、ということですが、これは佐賀の実情に照らしてみれば納得いただけるかと思います。佐賀県の大学進学率は男性42%、女性38%。岩手、沖縄に次いで低い数字です。東京、京都と比べれば、進学率は半分ほど。しかも、県外流出率は80%、県内進学率は16%、驚きの数字です。
大学の数が少ないので、県外に行くほか選択肢がないのです。
佐賀と同じ人口規模の山梨県と比べると、よりはっきりします。山梨県には9校の4年制大学があります。一方、佐賀県の4年制大学は、国立の佐賀大学と私立の西九州大学の2つのみ。しかも西九州大は、子ども学部と医療系の学部なので、4年制大学を志望しても、選択肢は極端に狭いのです。県外に出ると、たいてい地元には帰ってきません。だから、佐賀県の4大設置は、大学進学率を高め、大学進学の選択肢を広げ、佐賀の産業の担い手を自前で育成するためにとしても、とても重要な構想なのです。
今年の2月15日に、武雄市と旭学園とで、会見をおこない、大学の設置に関する覚書締結を発表しました。内容は、両者の協力のもとに、2学部を擁する4年制新大学の設置を構想するというものです。
さらに6月に、大学名称「武雄アジア大学」決定も発表しました。学部は、日本初、韓国を冠した「現代韓国学部」(仮称)――韓国エンターテイメントをはじめ現代の韓国文化や広くアジアのビジネスなどを研究する、「次世代教育学部」(仮称)――教員養成のみではなく、公教育・私教育を視野に、チーム学校、チーム教育を推進する多様な教育専門人材の育成をめざす、2学部です。
2月の段階では、「最短でも2025年4月開学をめざす」としていましたが、文科省の設置基準の厳格化に対応して準備を万全に行なうこと、建設事情の厳しさから工期の遅れなどのリスクを極力回避することなどから、改めて開学を2026年4月と定め、8月7日の会見で発表しました。
Q:とくに地元にとっては、とても公共性の高い事業ということですね。
今村学長:そうですね、とても意義のある事業だと考えています。高校まで頑張って育ててきた若者の多くを、受け入れる大学が少ないために、県外に放出していたのです。もちろん、県外に出ていく若者を無理に引き留めることはできませんが、できるなら地元に進学し、勤めたい、という若者は多いし、それで親の経済的負担も楽になります。
Q:4大になると、いまの短大はなくなるのでしょうか。
今村学長:4年制と短大併設というカタチを追求したいと考えています。なぜ短大を残すのか?最近、都市部では、相次いで短大が閉鎖されています。しかし、依然として、地方では、短大の存在意義は非常に大きいと思います。
私は、こちらに来るまで、4年制大学しか知らないで来ましたが、今は、佐賀県のような地方の教育と福祉を支えているのは短大だと実感しています。小学校教諭、幼稚園教諭、保育士、養護教諭、リハビリや介護人材など、短大が無くなればどうなるのでしょうか。介護人材の多くは外国人留学生でもあります。
本学の場合、介護福祉を学ぶ学生の70%は、ミャンマーやネパールなどからの留学生です。彼女らは、地域の福祉にとってまさに金の卵。卒業後は、佐賀の老健施設などで働いています。こういた人材が、佐賀の福祉を支えているんです。
まだまだ厳然とある都市と地方の経済格差、その中で2年間で、資格やスキルを学位とともに修得できる短大の存在意義は大きいと思います。
また、現在さかんに言われ始めた「学び直し」、「リスキリング」にも、短大はフィットするんじゃないかと思います。時代に噛み合い始めたのかもしれません。
実際、本学でも、高卒すぐ働きに出て、30代過ぎで短大に入りなおし、資格を取って再就職する、という人も多いんです。県からの学費など手厚い支援制度もあります。
偏差値に取り憑かれた人から見れば、地方の短大を低偏差値ということだけを見て、一面的な評価をする向きもありますが、どうぞ、佐賀女子短期大学に見に来てください、真剣に直向きに学んでいる学生がたくさんいますよとアピールしたいと思います。短大の役割は、まだまだあるんです。いや無限です。
Q:気概のある今村学長が短大に来られて、学生や職員の方々の意識は変わりましたか?
今村学長:地方の女子短期大学の「生き残り改革」について、経験もない私には、処方箋など持ちようもありませんし、もともとどんなことも、自分一人でやりきるという人間ではないのです。
まず、全教職員との一人1時間の対話、というより傾聴から始めました。私が全員に話したのは、「この大学はもう延命治療の段階ではない。リスクを覚悟した大胆な改革でしか生き残れない。つまり、9回裏ツーアウトランナー無しみたいな状況なのだから、逆転サヨナラ満塁ホームランを打つような」取り組みが必要だ、ということです。あとは、ひたすら、どんな思いで仕事をしているのか、これからどうしていけばいいのかなどについて声を聞いたわけです。
この対話をもとに、構想企画チームなど体制づくりをしました。次にやったことは、毎月、全教職での学習会です。様々な分野のトップレベルで活躍している方々にお話しいただきました。また、客員教授制度もすぐに導入し、谷口真由美さんなど、常識に抗い、創造的な活動をしている方々を招きました。外からの風をビュンビュン吹かせるためです。改革は上からは降りてこない、自分たちで考えなければならないということを理解してもらうためでした。構想について具体的な検討を介したのは、夏が過ぎてからでしたね。
このような取り組みが、教職員の意識改革につながったかどうかは、わかりません。しかし、昨年4月に一人で始めたことを考えると、今は多くの教職員が、自分ごととして懸命にがんばっている。そのことは確かです。
最近、2年目のインタビューを実施しました。印象的だったのは、ある職員の言葉です。「自分の大学は…」と、「私」ではなく、「自分の大学」という主語で考えることが増えたと言っていたんです。嬉しかったですね。だから、教職員の筋力もUPしていると思います。
学生は、どうでしょうね。就任後すぐ始めたHPの「学長なんでもノート」はずっと学生を意識して書いていますし、学生に話す機会があれば、内容をものすごく考えています。昨年夏に制作し、普及している「Be Sunny!」という新しいコミュニケーションマークとステートメントも、学生が使いたくなるデザインを意識して作りました。
短大の改革と新大学設立へのチャレンジに取り組む教職員の姿が、学生の心にきっと響くはずです。
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【リンク集】
佐賀女子短期大学HP ➡ https://sajotan.asahigakuen.ac.jp/
学長挨拶・プロフィール ➡ https://sajotan.asahigakuen.ac.jp/about/greeting/
インタビューした人:今村 正治(いまむら まさはる)
〈プロフィール〉
1958年、大阪府生まれ。
1981年、立命館大学文学部史学科卒業と同時に、学校法人立命館に就職。
財務部長、総務部長、総合企画部長を歴任、立命館アジア太平洋大学設立に携わり、
2014年、APU副学長・立命館常務理事に就任。
2019年、立命館定年退職後、学園経営コンサルタントとして今村食堂株式会社設立
株式会社ほぼ日、札幌慈恵学園・札幌新陽高校などでアドバイザー活動。
現在、学校法人旭学園理事、佐賀女子短期大学学長。
趣味は、ロック・バンド。
・インタビュー 本山德保,原田広幸:KEIアドバンス コンサルタント
・構成,記事 原田広幸